>教師が指示を与え、それをこなすだけで最後には答えが与えられるという授業をしていると、生徒は「指示待ち人間」になっていくと思われる。与えられた課題に対してのみに評価が付き、自らが予想を立て、それについて実験や調べものをして解決、考察をすることがない今の教育では、次世代は「指示待ち人間」になってしまうと思われる。公開研究会などに参加してみると、教師がいかにしっかりした課題提示をし、子供に活動させ、結論を引き出すかが基本的な枠組みとして重視されることを感じます。中学校などでも、教員が(学校として)決めたことを生徒が実施する、という形が学校の公式な活動の姿であることが普通です。それが伝統的な教育の姿であり、その上に児童生徒は自分たちなりの工夫を乗せるかどうか、というところでしょう。日本という人口の多い国の教育が通津浦々に洗練されてきたことは驚くべき事実です。しかしそれが唯一の解決なのか。
by shum 2017/06/19
>先生が始めから知識を一方的に教授してしまう授業や、生徒があらかじめ答えを知っているような当たり前なことばかりを取り上げる授業を受けていると、指示待ち人間にしてしまう可能性が高くなると考える。確かにそうなのですが、例えば1回やったことのある実験は、もうおもしろくもない、やる価値もないものなのか、というと、私は逆に、やればやるほどおもしろい、また疑問や新しい興味が湧いて来る、ということがあるように思います。知識についても、そのつど自分のなかで考え直しがあると思います。また人と話したり、このようにフィードバックするときに、別の面が気になったり、考えをあらためたくなります。人間の中に起きることはとても動的ですね。
by shum 2017/06/19
>ガリレオのように、創造性に富んだ実験も悪くはないが、やはりそれだけにしてしまうと授業が思ったように進まない可能性もある。授業を進めよ、というのは、一般の学校現場では本当に強い圧力として感じることになります。進めすぎなんじゃないの、というくらいのやり方はむしろ歓迎されます。本当におもしろいことなら、そうはならないと思うけど。
by shum 2017/06/19
>まず、起こった現象を説明できるような仮説を立てられなければ仮説推論のできない人になる。立てた仮説を正しいとして、実験観察によって検証可能な命題を導かなければ形式推論のできない人になる。最後に実験観察により得られた具体的結果を考察して一般的結論を導かなければ帰納的に考えられない人になる。仮説推論、演繹、帰納のなかで、最も拡張的で、機械的に導けないのが仮説です。仮説は、観察している現象そのものから導けない、全く別の概念からその現象を説明したりします。演繹は規則通りに操作すればよい。帰納も、現象の共通性が分かれば良い。仮説には、インスピレーションや閃きが必要であり、さらにインスピレーションで得られたアイデアを熟考して本当にふさわしいものかどうか批判的に考えられなければならない。
by shum 2017/06/19
>戦争は、するべきでない。あとには、悲しみと憎しみしか残らないと私は考える。しかしこの問いにおいて、健全な方に向かっていたとするときどのような理由があるのか考えてみると、面白いかもしれないと思った。科学技術の発展した現代では、先端的兵器開発の過程でも生命の環境を損傷させ、その完成物を戦争のために用いることは、人類の一つの文明の終焉を意味する。科学が技術と結びつかなかったとしたら、科学はあるところまでは世間離れした自然哲学だったかもしれない。そうならば、科学は誰もが学ぶ必然性のある知識領域ではなかったかもしれない。宗教のように。でも人間は経験に立って発展することをやめないので、技術は発展し、かならず科学を取り込んだでしょう。現代では、技術は、科学のみならず、法律そのほかの社会制度から心理・芸術、あるいは人間の身体能力にまで不可分に組み込まれている。
by shum 2017/06/19
>科学技術(だけでなくても教育などでも)の良い面・悪い面があって、それは時代によっても利用が変わってしまうことを知っておかなければならないと思いました。科学技術を扱う者として、科学を多面的に見る必要がある。世の中が便利になるだろう、良くなるだろうと開発されたものでも悪用される可能性もあることをある程度想定しておかなければならない。 たとえば現代においてはゲノム編集によってある病気にかかりにくくなるかもしれないが、意図的な生命を造り出すことにもつながりかねない側面を持っている。 20世紀は戦争の時代であり、自国を守ることが優先されたのかもしれない。科学技術によって国を守ろうと行き着いた先が原爆であった。当時の学者は核抑止力を狙っていただけかもしれないが使用されるまで思い至っていたのだろうか。考えていたとしても学者だけの力では国家プロジェクト化した科学を止められなかった背景も考慮しなければならないだろう。民主主義であれ独裁であれ、権力者は国民に対して、国を守るために戦争が必要と説得するというか迫ります。しかし戦争は自国を守るために始められるのではなく、他国を侵略したり奪取するために行われます。何を奪い取りたいのか、それは世界大戦後大変複雑になっています。
by shum 2017/06/05
>義務教育の間では、ガリレオのような創造性を発揮することにこだわらなくても良いと思う。なぜなら、創造性を発揮することができるほどの知識が小・中学生にはまだ備わっておらず、まずは確立されている結論を理解することが先決だと思うからである。一口に創造性といってもいろいろあろうかとは思います。次期指導要領では、未来を創造できることがすなわち新たな生きる力です。現在の指導要領も生きる力としてはよいのですが、社会の変化に対して受け身な生きる力になっているという反省があります。さて、実習にいくとアドバイスされると思いますが、教師の適正として大きな要素に、「子どもから学べる」ということがあります。子どもは発達の途上で、大人の介在を必要としますが、一方で教師として子どもに向かうと、子どもから学んで、少しずつ教師になるのだと感じられます。
by shum 2017/06/04
> 2017/05/08 17:02:46 policy_sel_key_competency_1 キーコンピテンシーに関してざっくりわかりました。 それに関しての講義も聞きたいです。キーコンピテンシーはヨーロッパという数々の困難な問題を抱えた地域を中心に策定されましたが、非常に重要なことは、概念化がしっかりしていることです。日本の指導要領での生きる力は概念をひろくしてだれでも異論をはさみにくくしていますが、その分キレが悪い。特に、OECDのキーコンピテンシーでは、相互作用のためのツール、自律的に生きるとはどのようなことかについて、具体的に概念化している。
by shum 2017/06/04
>高校の学習指導要領を見たが、とても詳しく書かてれいるという印象であった。学習内容の本文はかなり詳しいもので、教科書作りを細かく規定する結果になります。しかしその一方で、どのような考え方をするのか、どのように見出されて来たかという、探求のありかたというよりも、結果についての「知るべきこと」「習得しておくべきこと」が圧倒的です。教科書は、授業の内容や選抜試験の内容を規定してしまいます。
by shum 2017/05/14
>何か答えがあるのではなく自分なりに答えるという問いは、実はとても難しく答えにくいものであると思った。そうですね。目標も方法も他者に指定してもらう方が楽です。でもそれは危険でもあります。一方、そんなに関心がないことの裏返しでもあるでしょう。
by shum 2017/05/14
>自分が予想したように、当たらずといえども遠からずといった感じであるが、言葉が捕捉されていることによりさらに深みがあり、目標として明確である印象を受ける だいたい言い当てられるというのは大したものです。採用試験の対策としては、より明瞭に思い出せるようにしてください。用語が大切かな。しかし教育のためには、この指導要領での目的が意味するもの、自分の実践の方向との照合などを時々問い直してください。
by shum 2017/05/08
>目的意識をもって観察実験を行うということは、とても当たり前のことのように思えますが、学校の授業などでは、実験を行うことが目的で、何を解決したいのか、確かめたいのかなどは自分はあまり意識していなかったように思えるので、教える側としてその意識は改善できるようにしていきたいです。教育実習でも議論されるでしょう。仮に、授業の冒頭で、今日考える問題を明らかにしたとしても、実際に子どもの頭の中に明確な問題意識ができたのか?また、出てきた結果や結論は、最初の目的を満たすことができたのか?
by shum 2017/05/08
>理科嫌いの子供たちが増えている中で、いかに理科離れを食い止めるか、それは理科教員に与えられた使命であると思う。そのためには自分の考える理科教育の目標を明確に持っていないといけないと思う。小学校以下では理科、あるいは理科的なものは人気があります。小学校高学年で子どもに関心の幅が広がります。中学校理科で理屈と、理屈にもとづく実験が始まると、同時に理科嫌いが始まります。さらに進むと、科学が好き、興味がある、ということと、科学の学力がしっかりしているということが別ものになります。一方、発展途上国では理科は非常に人気があります。ただし学力試験をやると、理科好きでもない日本が圧倒的に高成績となります。
by shum 2017/05/08
>理科の授業で大切にするべき安全、思考力、問題解決能力は、自分自身がもっているかもう一度確認しなければならないと感じた。科学的事象に対する理解を深めるだけではなく、理科的な考え方、問題意識の持ち方を養っていきたい。科学的な見方や探求力とはどういうものなのか、それはなぜ「生きる力」たり得るのか、教師はやっぱりこれを意識して問い直すべきではないでしょうか。
by shum 2017/05/08
>この学年になりいろいろな知識を身につけてきた中で、今一度立ち返りなぜ理科を学ぶのかということに視点を置くのは初心に戻れる気がした。なぜ自分が理科教員を目指し、どんな教師を志すのかこの授業で考えていきたいと思いました。身近な現象に興味関心を持ち、それらについて科学的に考え理解すること。また、日本の科学の発展のために必要な知識を身につけるため。教室に入れば様々な児童、生徒がいます。それを一色の「理科教育」で塗ることができるような「解」はないと思います。この授業は理科教育の授業ですが、それを人が人に行うときには、人に対しての興味や根気が必要ですね。
by shum 2017/05/08
>中等理科になると観察や実験などが減ってしまうと感じる。受験のために演習を多くして、数学や英語の隙間に全ての知識をカバーしようとすると、肝心の実験観察が減りやすい。結論がわかることが大事で、実験してもいい加減な結果しか出ない、と思うと実験観察が減りやすい。子どもに実験させると危ないし、後片付けが大変、と思うと実験観察が減りやすい。もともとの理科教育の目的を忘れている(知らない)と実験観察を軽視しやすい。なぜなのか。
by shum 2017/05/08
>子どもたちの理科離れが進んでいる今、教師たちが創意工夫しないと、自然の事物・現象に進んで関わらせることもできないし、科学的に探究する態度や科学的な見方や考え方を養うことはできないと思った。その通りですね。理科教育の目的の上に、教育全体としての目的がありますが、これは未来を自ら創造できる人間を育てることです。そのためには教師自身も教育に創造的でなければならないと思います。科目が好き嫌いということとは別に、子どもはおもしろい教師には興味を持ち、またその言動も記憶に残ります。
by shum 2017/05/08
>理科の特徴は、観察・実験だということはわかっていたが、ただなんとなくやるのは教育にならないのだと思った。通常授業で行う実験は、知識の確認実験が多く、未知のことを探究するものではない。しかし、社会にでて活動しはじめると未知のことだらけであり、将来の社会を考えると、未知のことばかりです。
by shum 2017/05/08
>理科を専攻しているにも関わらず、その目標や内容などの知識・理解が自分にはまだまだ足りないので、もっと勉強しなければならないなと思いました。科学技術の専門家は、学習指導要領での教科教育の目的などは知らないと思います。知らなくても科学はやれる。しかし教育の目的というものは、国民の行く末を方向付けるものなので、広く知られるべきものではないでしょうか。
by shum 2017/05/08
>学習指導要領の目標の言葉は、抽象的でいまいち何を言っているか分からないことが多々ある。そのため、指導要領解説はかみ砕いて具体的に書いているので、まだ分かりやすい。指導要領解説は現場の教員によく読まれるものです。読んでみると、小学校の解説には、科学的な見方・考え方とは何か、ということが解説されています。しかし中学校の解説にはありません。では小学校の解説は納得いくものかというと、受け入れられやすいが、納得はしにくい。科学とは何か?教員は何を教えようとしているのか。
by shum 2017/05/08
>目標は身の回りの事象に興味関心を持ち、科学的な見方・考え方ができるようになること。学習指導要領では、実験や観察を通して論理的に身の回りの事象を説明できるようになること。科学的な探求力ということが抜けています。これが最終目的です。で、本当に最終目的に向かって教育されているか?
by shum 2017/05/08